理不尽にも生を受けた

反出生主義者の文章練習帳。他インターネットやアニメや本とか。

「東京」と青春-ライトノベル「おまえをオタクにしてやるから、俺をリア充にしてくれ!」

 私は田舎コンプレックスを拗らせている。くまみこのマチちゃん程ではないが、彼女に対してしばしば共感することもあるくらいに拗らせている。

私は東京の生活に憧れている、特に高校、大学時代を東京で過ごすことに憧れていた。しかし、東京の生活は叶わず、相変わらず地元で消耗し続け土と草の香り中自意識を絶賛肥大化中である。

私の学生生活が暗黒だったのは田舎だったからではなく、仮に東京で過ごしていたとしても上手く行かずに拗らせた大人になっていったであろうが、私はどうしても青春を東京で過ごせなかったことに未練がある。

 そんな未練が残っているからか、私は東京を舞台にした作品が好きだ。作者は別に東京であることに拘りが無く、単に自分の経験を元に舞台を設定しているだけかもしれないし、人口の多さから共感が得られると考えてのことかもしれない。話の主題も東京であることは全く関係ないかもしれない、しかし、そんな作品でも私は背景に描かれる東京の景色を想像するのがとても好きだ。想像の中で都会の騒がしく密度の高い背景に自分を埋没させている。そんな勝手な楽しみ方をするのが好きだ。

最近は石田衣良が好きだ。あと浅野いにおのデットデットデーモンズデデデデデストラクションは、書き込まれた背景を美術館の絵を鑑賞するかのように時間をかけてうっとりとしながら何度も眺めていた。

 

 

 

 私が好きな「東京」の作品(小説、漫画、アニメ、ゲームその他あらゆる媒体)はたくさんあるけれど、その中で今回紹介したいものがある。

www.fujimishobo.co.jp

 

お前をオタクにしてやるから、俺をリア充にしてくれ!略称「オタリア」は、

隠れオタクの主人公柏田直輝は高校生活の初日に道端で見かけた同級生の長谷川翠に片思いをしていた。そんなある日、隠れオタクであることが美少女ギャルの恋ヶ崎桃にバレてしまった。しかし、恋ヶ崎から自分をオタクにしてほしいと告げられる。恋ヶ崎はイケメンだがオタクの鈴木爽太に片思いをしていて、自身もオタクになって彼に近づきたかったのだ。柏田の方もリア充になって長谷川と付き合いたい。両者の利益が一致し、協定が結ばれる。

あんたをリア充にしてあげるから、私をオタクにして!

おまえをオタクにしてやるから、俺をリア充にしてくれ!

リア充を目指して不器用ながらも奮闘する柏田と、オタクを目指して自分の常識から大きく乖離したオタク文化に戸惑いながらも理解を深めていく恋ヶ崎。二人の恋の行方はどうなっていくのか?という作品である。

 

 

 あらすじを読めば、オタクの読者がオタク趣味を受け入れられる一方美少女とイチャイチャするという妄想を体現した作品だと思うだろう。まあ実際それを狙っているだろうし、タイトルもひと目でそういう内容だとわかるものになっている。(ちなみに、作者自身がつけていた元々のタイトルは「スーツガールはご機嫌ななめ」らしい。)はがないみたいに、学校でリア充になれない陰キャラたちが自分たちだけの世界でリア充ごっこするといった作品(さやわか氏の言葉を借りて「残念系」というのが近いだろうか

[新刊案内] 2014.04.10 | 一〇年代文化論 | 星海社)を期待するかもしれないが、読んでみると拍子抜けする。ものすごくリア充感が漂っている。とても「陽」のオーラがある。(特に巻が進むに連れてこの傾向は強くなってくる気がする。)人間関係も学校内で終わらずに、結構バイト先の先輩だったり同人作家の大学生だったり、とにかくすごく活発に物語が展開していく。

 

そして、私が何よりも好きなのが、東京の学生生活が何気なく描写されているところである。服を書いに行くだとか、登下校で電車を利用するシーンだとか、デートに行くシーンだとか、一つ一つが私の田舎での学生生活ではけして味わうことのできなかった都会の学生生活が書かれていて、その東京での青春をリアルに想像できて追体験することが出来た。

デートをするシーンでは「女の子とデートすること」ではなく、「デートとしてお台場に行くこと」にものすごく惹かれた。

もちろんこの作品は、東京の青春と文化をテーマにした作品では無いし、単に作者の体験を元に舞台が東京に選ばれただけだと思うが、わたしはどうしてもこの背景に描かれた都会の活動の様子に感動を覚えた。

この作品は東京を本当に素晴らしく描いている。(もちろんここでの素晴らしさとは、東京の人から見た東京のリアルさ、ではなく田舎者の自分が憧れの東京の想像力を引き立てる描写力があるということである。)

オタリアは、オタクの妄想を叶える作品として以上に、東京の高校生が送る文化的青春時代を書いた、田舎コンプレックスを抱いている自分の東京の青春への憧れを叶える青春小説として読めた。こんな風に女の子とイチャイチャしてえ!ではなく、こんな風に東京で過ごしたかった!羨ましい!という気分でいっぱいだった。

 

 私は本当に田舎者コンプレックスを拗らせていて、東京で若い時の時間を過ごせなかった時点で自分の人生の殆どを損しているように思っている。地元と言っても小学生の高学年のときに引っ越してきた土地なので、その地域との深いつながりとアイデンティティが自分にあるわけでもない。そんな大した思い入れもない田舎で、中毒症状を起こしそうになる。自意識が地方特有の広大さと静けさの中で肥大化していってしまう。疲弊した地方の空気を、衰退した空気を、吸い込んでいるうちに自分の細胞がみるみるうちに死んでいくような気がする。なんか都会に疲れたとか言って田舎に子供を連れて移住する人の話をよく聞くが、子供が可哀想で仕方がない。せっかく東京でのスクールライフを手にしていたはずなのに、地方で貴重な青春時代を消耗する羽目になるとはかわいそうだなと思ってしまう(余計なお世話だし、本人は僕みたいな拗らせた人間じゃなくて気にしないだろうが)。

もちろん、あくまで「コンプレックスをこじらえている」だけなのは自覚している。だから地方は糞が真だとは思っていない。当然地方で活発に生きている若者はたくさんいるし、地元を愛している人は沢山いる。それに東京に行ったからと言って充実した生活を遅れるとは限らない。そんなのは百の承知だし、結局今までグダグダ言ってきたのも、何一つ正当性のないただの思いこみにすぎないのも本当はわかってる。だが、インターネットでどこでも情報が得られる今日にあっても、地方にいるとどうしても文化的な欠乏を感じてしまうのだ。偏狭で無知で不当なコンプレックスを抱いてしまうのだ。

 

本の紹介というより、完全に自分語りになってしまった。あたかも紹介かのようにこの作品を利用してしまって申し訳ないと思う。だけど、僕はこの作品の本当にハマったし、自分の都会に対するコンプレックス、青春へのコンプレックスへの処方箋になってくれたのは事実で、この作品がとても好きだ。私の拙い文章では作品の魅力を伝えることは叶わなかったかもしれないが、それでもこの作品は傑作であるということはどうしても伝えたい。この記事を機に興味を持った方は是非読んでほしいし、他の上質な素晴らしいレビューがたくさんあるので探してみてほしい。

少年法ばかり叩かれる今日、年齢による刑罰の不平等を考えてみる。

 

日本社会においてつねに槍玉に挙げられるのが「少年法」である。


①未成年だからと言って、犯した罪に対しては大人と同等の刑罰を受けなくてはならない。
少年法があるから死刑にならない、すぐに社会に出てこれると高をくくって重大犯罪を犯す未成年者がいる
と言った理由で、少年法は常に避難の的にある。
他にも、
③更生は不可能である。
④重大犯罪を犯した犯人がたとえ未成年時の犯行だとしても、社会に出てくるのは恐ろしい。
⑤被害者、遺族の感情を考えれば、未成年だからと免責されるのはおかしい
といった理由も挙げられる
(あくまでこういう意見が良く挙げられるというだけで、けして正しい・事実であるというわけでは無い)

上の他にも様々な理由で批判を浴びる少年法だが、今回私は①の意見に対して批判をしたいと思う。

①未成年だからと言って、犯した罪に対しては大人と同等の刑罰を受けなくてはならない。

これに対する批判を一行で述べるならば
「そもそも、大人と同じの刑罰を未成年者が受けることは不可能である」
ということである、これについて以下に詳しく述べて行きたいと思う。

ここで、注意してもらいたいのが、私がこれから述べるのは「少年法批判に対する批判」ではなく、「同じ刑罰でも、年齢によって重さが違いすぎて不平等だ」ということである。別に少年法の是非をここで議論するつもりはないのであしからず。

60歳が死刑・無期懲役になることと、18歳が死刑・無期懲役になることでは、重さが違う。

 もし仮に18歳の殺人犯が、死刑・無期懲役となるとしたら、その少年の娑婆での生活は18年間で終わることになる。
残りの普通に生きて生活していたであろう、その可能性が十分にあったであろう50年近くは、刑罰によって剥奪されることになる。
しかし、60歳の殺人犯が、死刑・無期懲役となったらどうであろうか。すでに60年間社会で自由に生きてきて、
そして刑罰によって剥奪される将来はせいぜい10年程度である。
 これは、あまりに不平等では無いだろうか。
大人と同じ刑罰をと言うが、少年が今まで生きてこれたのはせいぜい20年弱であり、そして今後奪われる人生も何十年という年月がある。
年齢によって、無期懲役、死刑、もしくは長期懲役刑の重さは全く異なり、
18歳が死刑・無期懲役で受ける刑の重さを、高齢者が受けきることなどできない。

死刑、懲役刑は年齢によって不平等が生じている。

少年が大人と同等の刑罰を受けるというのはそもそも不可能である。なぜなら、少年が死刑・無期懲役で剥奪されるものは、あまりにも重すぎで、大人が受ける刑の重みを遥かに超えるからである。

 

年齢による刑罰の不平等

少年法は未成年者の責任能力等の点から考えられたものであり、
けして上で述べたように、年齢による刑罰の重さの不平等から考えられたものではないと思うが、
20代の犯人は総じて憐れである。
20代は少年法が適応されず、大人として裁かれるが先程述べたように、年齢による刑罰の不平等を考えると、50代60代と同じ刑罰を受けたとしても、その重みはかなりの差がある。20代で無期懲役になった犯人、今までせいぜい20年そこらしか生きてこなかったのに、今後何十年も塀の中で暮らさなくてはならない。
一方高齢になってから罪を犯した犯人は、今まで十分娑婆で生きて、無期懲役になったとしても、せいぜい十年ちょっとでこの世からおさらばである。
高齢になって、刑務所で介護を受けたり病院で過ごすことを考えれば、もはや懲役10年程度では無いか。

ところでジャネーの法則を知っているだろうか。

生涯のある時期における時間心理的長さは年齢の逆数比例する(年齢に反比例する)。

ジャネーの法則 - Wikipedia

この法則が絶対正しいというつもりで引用した訳ではないが、

若い時のほうが同じ時間でも重みがあると言うのは感覚的にも分かってもらえるだろう。

同じ時間の剥奪でも20歳のときに剥奪されるのと60代のときに剥奪されるのでは重みが違う。これは無期懲役や死刑だけではなく、短期、中期の懲役刑でも言えることだろう。懲役刑の年月は同じでも、年齢によって重みが違うので、刑の重さには年齢によって不平等が生じている。


少年法が適用されることもなく、明らかに他の年代に比べて重すぎる刑罰を受ける20代の犯人であり、
20代の若い犯罪者に比べて、ずっと軽い刑罰を受ける高齢の犯罪者である。

 

少年犯罪ばかり非難するな。

殺人事件全体の中でごく少数にもかかわらず、報道では大きく取り扱われ少年による犯罪が多発・凶悪化しているかのような印象を多くの国民が持っている今日。

未成年の犯人は少年法によって未成年だからといって罪を償わずに済むのかと批判を浴びているが、罪をろくに償わずに済んでいるのは高齢者の犯人の方ではないか?

高齢者の犯罪者が死刑や無期懲役になっても、そもそも失う残りの年月は少なく、その刑の重みはあまりにも小さいということに世間は気づくべきではないだろうか。

とは言え、テレビやインターネット越しに犯人に対して怒りをぶつけたところで何一つ治安に貢献することはないので、無意味な感情に振り回されるのはやめたほうが良いだろう。何かに対する怒りは、この上ない娯楽ではあるが、その誘惑に負けてはならない。

 

おしまい

この記事を書いたのは、世代間の対立を煽るためではない。

別に司法に対して文句を言って改善を求めるわけではない。

ただ、人間の持つ時間の不平等さを感じて、書いてみた限りである。